カワユイ(^◇^)ムスリム新聞

紙版でしか存在していなかったムスリム新聞を少しずつデータ化します。誤字脱字も当時のままとします。

創刊号_『40のハディース』学習ノート

『40のハディース』学習ノート

 7月2日、ヒジュラ暦で年が改まりました。1413年がスタートしたのです。ヒジュラ暦は、預言者ムハンマド(サッラーッラーフアライヒワサッラマ)がマッカ市民の迫害を逃れマディーナに移住した年を起点にしています。マディーナに移った預言者は同年、成文憲法を作成し、イスラーム政治をスタートさせます。最初のムスリム国家がここに誕生したのです。イスラーム文明の幕開けです。

 この記念すべきヒジュラ暦の一月、ムハッラムに私達が新聞を創刊できることはアッラーの祝福ではないでしょうか。日本でもムスリム人口は近年着実に増えていますが、共同体を形成するには、まだまだ数も足りず、地理的、時間的障害に阻まれ思うようになりません。しかし、数が少ないからこそ、一層団結が要求されもし、また堅い団結も可能なのではないでしょうか。本当の共同体の誕生を待ちつつ、精神的な共同体を、ビズニッラー、今から作っていこうではありませんか。

 連載でお送りする『「40のハディース」学習ノート』。第1回目の今回は第1のハディースですが、折よく、マーシャアッラーヒジュラ(聖遷)を扱ったハディースです。

 この第1のハディースは「意志」の大切さについて語ったハディースで、三大ハディースのうちの一つに数えられています。ちなみに、あとの二つはイマーム・アフマドによれば第5と第6のハディースです。

 「行為とは意志に基づくもので、人にはそれぞれ意図するものがある。したがって、アッラーとその御使のために聖遷をした者はアッラーとその御使のために聖遷をしたのであり、現世の利益や女との結婚のために聖遷に加わったものは、それらのために聖遷を行ったのである。」

 西暦622年、ムスリムに対する迫害が激化するマッカを逃れ、預言者(サッラーッラーフアライヒワサッラマ)はマディーナにヒジュラを行っていますが、彼に付き従った信者の中には純粋な信仰心からではなく現世的な目的から聖遷に加わった者もいました。求婚相手の女性から聖遷に参加したら結婚してもいいと言われ、その女性と結婚したさにヒジュラに加わった者もいました。その男は、以来、結婚相手の女性の名をとってムハージル・ウンム・カイスと呼ばれたそうです。

 聖遷を例えにしたこのハディースは、私達の行為にとっていかに「ニーヤ(意図)」が重要かを示すものです。ニーヤいかんによって同じ一つの行為は、報酬を受けるべきものにも、罰を受けるべきものにも、あるいはそのどちらでもないものにも変わりうるのです。

 自分が慣れ親しんだ土地、様々な所有物を捨て不信者の町から信者の町に移り住むことは、信仰のためとはいえ辛いことです。ですから預言者(サッラーッラーフアライヒワサッラマ)に従ってヒジュラを行ったものにはアッラーがその苦労を特別の報酬で報いてくれますが、現世利益のためにヒジュラを行った者は、当然それにあずかることはありません。結婚のために聖遷に加わった者は、結婚成就によって当の目的を果たしたのですから、それ以上のものをアッラーから期待するのは見当違いというものでしょう。

 ここでひとつ、私達の礼拝を例にとってみましょう。礼拝の始めに私達はニーヤを発しますが、これは一つにはこれから行う礼拝が何の礼拝かを明確にするためにあります。ズフルの礼拝もアスルの礼拝も同じ4ラカア、二つを区別するのはニーヤ以外にありません。礼拝におけるニーヤの意義はもちろんそれだけではありません。さらに需要なことは礼拝をアッラーのために行う、アッラーのためだけに行うということをはっきりと意志することです。これが、クルアーン第112省のタイトルにもなっている「イフラース(専心)」です。あるいは「ラーイラーハイッラッラー」の意味するところといってもいいでしょう。

 アッラーはなによりも「シルク(多神教)」を嫌いますが、それはアッラーのほかに神々を並びおく、ということだけを意味するものではありません。アッラーのためのみに行うべき行為にほかの動機を混ぜることもシルクとみなされます。人にいいところを見せたい、と思うそのわずかな虚栄心ですらシルクとなりうるのです。

 預言者(サッラーッラーフアライヒワサッラマ)があるとき言いました。「私があなた方にもっとも懸念するのは小さな多神教です。」「小さな多神教とは何ですか。」と人が尋ねると、預言者は答えて言いました。「見せびらかしのことです。復活の日、信者はおのれの行為に従って報酬を受けますが、その日アッラーは言われるでしょうー『前世に行いを見せびらかした人のところに行って彼らが報酬をくれるかどうかみるがよい』」

 さらに別のハディース預言者(サッラーッラーフアライヒワサッラマ)審判の日の裁きの様子をこう語っています。

 「審判の日、まず殉教した男が裁きの場に引き出されます。男が進み出るとアッラーは男に自分が懸けた祝福を喚起し、男はそれを認めます。そこでアッラーは尋ねますー『お前はそれで何をした』。男は答えて言いますー『あなたのために戦い、殉死しました』『お前は嘘をついた』とアッラーはこれに対して言います。『お前が戦ったのは人がお前を勇敢だというためだったではないか。なるほどお前はそう言われた。』こう言うとアッラーは命を下し、男は顎を引きずられて地獄に連れ込まれます。次に知識を自ら学び、また人にも教え、クルアーンをよく読んだ男が前に進みます。アッラーは男に自分が懸けた祝福を喚起し、男はそれを認めます。そこでアッラーは尋ねますー『お前はそれで何をした』。男は答えて言いますー『知識を学び、「それをひとに教えました。またクルアーンを読みました。あなたのためにです。』これに対してアッラーは言います『お前は嘘をついた。お前が知識を学んだのは、人から博識だと言われるためであり、クルアーンを読んだのは人からうまいクルアーン読みだと言われるためだったではないか。確かに人はそう言った。』こう言うとアッラーは命を下し、男は顎を引きずられて地獄に連れ込まれます。次にアッラーが富を授け、金銭を与えた男が前に出ます。アッラーは男に自分が懸けた祝福を喚起し、男はそれを認めます。そこでアッラーは尋ねますー『お前はそれで何をした』。男は答えて言いますー『あなたが金を使うようにと望まれる機会をひとつも逃さず、あなたのために費やしました』。これに対してアッラーは言いますー『お前は嘘をついた。お前がそれをしたのは、人から気前がいいといわれるためだったではないか。確かに人にそう言われた』。こう言うとアッラーは命を下し、男は顔を引きずられて地獄に連れ込まれます。」

 なんと厳しい話でしょうか。このハディースを聞いたムアウィアは身を二つ折にして泣いたそうです。やがて涙が乾くと言いましたー「アッラーは真実を語り、その使徒もしかり。至高なるアッラーは言われたー『現世とその飾りを望む者は、彼らの行為の見返りを現世のうちに十二分に受け、受け残しなどしない。彼らを来世で待つのは地獄の火のみだ』」。

 礼拝に話を戻しましょう。例えば、私が一人で部屋で礼拝をしていたとします。誰も見るものがいませんから、礼拝は純粋にアッラーに捧げられたものといえます。ところが、その最中に誰かが部屋に入ってきました。途端に私の心に、普段より長めのアーヤを読んで、いかにも熱心なポーズを取りたい気持ちが働きます。それが「リヤー(見せびらかし)」です。気持ちに不純なものが入り込んでしまっています。アッラーに専心する=イフラース、と言うは易いのですが、私たちの行為には様々な動機が複雑に絡まっているのが普通で、なかなかそれを純化するのは難しいことです。預言者ならばいざしらず、私たち凡人がそこまでの境地に達するのは並大抵の努力ではすまないでしょう。ただ、私たちが自分自身のいたらなさに落ち込み、思わず尻込みしそうになるときには次のハディースを思い出すことができます。「・・・もしもあなた方が罪を犯すことのない者であるならば、アッラーはあなた方を消滅させ、罪を犯すに違いない人々と取り替える。そして、彼らがアッラーに許しを求めるときには、彼らをお許しになる」

 私達の行為がその意図によって評価されるということは、逆の見方をすれば、たとえどんなに小さな行為でも動機さえ純粋ならアッラーの目には好ましいということです。

「たとえなつめの実半分でもサダカしなさい。それによって地獄の火を逃れるでしょう」あるいは「たとえ羊の足でもそれを隣人に与えることを下げすんではならない」と預言者(サッラッラーフアライヒワサッラマ)は言っています。第37のハディースにあるように、よいことをしたい、という気持ちが起これば、実際にそれが実行出来なくてもアッラーの手許にはプラス1と書かれ、ひとつの行為をすればニーヤ次第で10から700倍にも評価されるのです。

 また、ニーヤは私達の日常の行為を信仰行為に変えます。例えば、食べる、飲む、眠る、歩く、といった行為はそれだけでは何の意味ももちません。ところが、ニーヤをもってそれらの行為を行えば、それは立派に信仰行為となります。おなかがすいたから食べる。それではなんの意義もありませんが、食べ物の恵みをアッラーに感謝し、栄養を取ることによって体をアッラーのために役立てて行こうというニーヤをもって食べたのなら、信仰行為としての報酬があるでしょう。シャワーを浴びるのにしても、単に暑いから、単に汗をかいたからシャワーを浴びる場合と、グスルのニーヤをもって浴びる場合では同じシャワーでも意味が違って来ます。歩くにしても、礼拝のためにモスクに向かって歩くのなら、その歩みの一歩一歩が善行として加算され、また歩みそれ自身が礼拝にある、といわれています。

 私達の行為の意義を決定付けるのは意図だということを学んだわけですが、最後に、ニーヤに関連して信仰の3つの形についてお話ししましょう。ひとつは、天国でアッラーから褒美をいっぱいもらいたいための信仰で、これをイバーダ・アルティジャール(商人の信仰)といいます。ふたつめは、アッラーに背き地獄に落とされることが恐いための信仰、これをイバーダ・アルアビード(奴隷の信仰)といいます。3つ目は、イバーダ・アルイフサーン、心からの信仰です。この3つ目の信仰を理解するには預言者ムハンマド(サッラッラーフアライヒワサッラマ)を思い起こせば良いでしょう。彼は夜の礼拝に熱心なあまり愛sがはれるほどだった。とアーイシャ(ラディアッラーフアンハー)が伝えていますが、彼にはアッラーから天国での報酬はすでに十二分に約束されていましたから、報酬を望むために礼拝をあげる必要はありませんでした。また、これまでに犯した過ちもこれから犯す過ちもすっかりアッラーから許されていましたから、アッラーの罰を恐れることもありませんでした。それにも拘わらず、預言者(サッラッラーフアライヒワサッラマ)は他のどんな信者にも増して熱心に礼拝をあげました。この預言者の礼拝こそ、アッラーへの言い尽くせない感謝のためのイフサーンの信仰を表すものです。

 「40のハディース」の編者ナワウィーは、このイバーダ・アルイフサーンこそ最もすぐれた信仰の形と考えますが、アッラーを信頼し褒美を期待するイバーダ・アルティジャールと地獄を恐れアッラーに許しを乞うイバーダ・アルアビードも決して軽んじるべきではありません。むしろ私達の信仰心には両方がバランスよく備わっているべきです。例えて言うなら、それは鳥の両翼に似て、どちらか一方が欠けても空を飛ぶことはできません。そしてその両翼で飛んで行く先が信仰の完成ともいうべきイバーダ・アルイフサーンなのです。