カワユイ(^◇^)ムスリム新聞

紙版でしか存在していなかったムスリム新聞を少しずつデータ化します。誤字脱字も当時のままとします。

創刊号_今月の活動予定

<東京>

クルアーン勉強会、8月24日(日)14:00、日本ムスリム協会 03-3370-3176

クルアーン勉強会、毎週土曜、10:00、ジャパン・イスラミック・センター 03-3460-6196

 

<関西>

*関西懇話会 8月8日(土)18:00、梅田、国紹介「エジプト」勉強「誠実について」

 

 これらの会の具体的な活動内容をいずれ新聞でご紹介していきたいと思います。また、今回は都合でご紹介できませんがこのほかにもまだまだ大小の集まりが各地にあります。ここに紹介されていない会で、まだこんなものもある、といった紹介があったらぜひ「ムスリム新聞」にお教えください。たとえ出席できなくても、ムスリムたちがいつもどこかでアッラーを思い起こし、賛美するために寄り集まっていると知るのはうれしいことです。

創刊号_★今月のハディース

 今月ムハッラム月について、「ラマダーン月に次いで良い断食はアッラーの月ムハッラムのそれである。そして義務の礼拝に次いで良い礼拝は夜間のものである」預言者ムハンマド(サッラッラーフアライヒワサッラマ)がヒジュラで移住したマディーナについて、

「マディーナの入り口には天使がいる。だから災いや大噓つきのペテン師(ダッジャール)は入れない」

「マディーナの民に害を与えようとする者があれば、アッラーは、ちょうど水が塩を溶かすように、罰し滅ぼしてしまうだろう」

「私のマスジド(マディーナの預言者モスク)での礼拝は、マスジド・ハラーム(マッカのカーバモスク)を除いた他のマスジドでの礼拝より千倍も優っている」(「サヒーフ・ムスリム」より引用)

創刊号_今月のキーワード

今月のキーワード

※ニーヤ(意図)

 礼拝、サダカをはじめとした信仰行為を行う際には、その意図をはっきりさせ、その行為がアッラーのため以外のなにものをも目的としないことを私たちはニーヤで明確にしなくてはなりません。ニーヤが大きければ小さな行為もアッラーは評価して下さるでしょう。

 

※シルク(多神教

 シルクには大きなシルクと小さなシルクの二つがあります。大きなシルクはアッラーにほかの何かを並び置くこと。アッラーがもっとも嫌うことで、これ以外の罰ならばどんなものでも許されるでしょう。一方、小さなシルクとは見れびらかしです。アッラーのみを目指して行うべき行為を人に良いところを見せようという気持から行うことです。

創刊号_~物語連載のお知らせ~

 日本にも若いムスリムの夫婦がずんずん増えています。アルハムドリッラー。そうしたムスリムとしても親としても新米の皆さんの中には、日本というイスラームの規範から程遠い環境の中で子供を産み育てることに不安をお持ち方もあるのではないでしょうか。外国人と結婚された日本人の女性の若いおかあさんの中には、生まれてすぐに子供をご主人の国のご両親の許に預けてしまわれた方、就学年齢に達した子供をハーフィズ(クルアーン暗唱者)にするために日本を離れる決意をされた方などがいると聞きます。成人のムスリムに対してすら十分な書籍の揃っていない日本ですから、子供向けの書籍の充実はまだまだです。そこで、その一助となるように「ムスリム新聞」では、小学生中学年向けの物語を連載していこうと思います。

 第1作目は『貧しくなりたかったお姫さま』。女の子向けの物語です。大人の皆さんもきっと楽しめると思います。原作者はアメリカ人のムスリマで、現在、翻訳許可を手紙で交渉中です。許可がおり、来月号には連載がスタートできるよう、みなさんもアッラーに祈ってください。

創刊号_手紙から

山崎浩子のこと

 今朝(6月26日)のテレビで、新体操の山崎浩子統一教会に入っていて、この8月に合同結婚を予定している、というニュースがセンセーショナルに報道されていました。それに関する記者会見の模様が長々と放映されていたのですが、インタビューに答える浩子さんは、確信に満ち、しかも自然でなんの気負いもなく、その表情には信仰を得た人間の清々しさがうかがえました。

 浩子さんは、統一教会の勉強を3年ほど前からやられていたそうですが、きっかけは友人に誘われて見た、ビデオだったそうです。そのビデオに大変感動した浩子さんは、友人からあとでそれが統一教会のものであったことを明かされ、驚いたそうです。統一教会の悪名はもちろん耳にしたことがあったからです。しかし、なんであれあなたがビデオから受けたその感動は真実なのだから、拒否反応を起こす前に少し統一教会のことを知ろうとしてみたら、と友人に諭され、勉強を始めたのだそうです。別になんの悩みを抱えていた訳でもないけれど、ただ、学校を始めて子供にものを教える責任を意識し、自分がもっと人間的に成長しなければ、と感じていた時に、ビデオを見、人のことを思いやって生きることの大切さを知り、目を開かれたような思いをしたということでした。

 合同結婚をしようと決意したのは今年になってからのことで、去年の時点では信仰上も、人間的にもそこまで達していなかった。今は、神を中心とした夫婦生活を築きたいという気持ちでいっぱいで、どんな人と連れ添うことになるのか期待でわくわくしている、と浩子さんは語っていました。見も知らぬ人と結婚するなんて、と第三者は目をむくようだけれど、信仰に結ばれていたらどんな障害も乗り越えられるだろうし、愛し合って、この人となら一生連れ添えると信じて一緒になる二人が年月を経ると気持が擦れ違うようになる。それならお互いになにも知らない状態からスタートして、理解しあうように努力して行ったほうがいい関係を築けるのではないかと思う、とも語っていました。きのうまで見ず知らずの他人だった人を生涯の伴侶とするなんて、とレポーターはどうしても理解できないようすでしたが、浩子さんを含めた合同結婚希望する信者にとっては「文先生」(教主の文鮮明)が真意にしたがって連れ添わせてくれる伴侶なのだから間違いないと信じるのは当たり前のことだと私には思えます。自分が、この人こそと選んだ人なのに年月を経れば心変わりする、されならいっそ神に選択をまかせよう、ということなのでしょうから、信仰を持つ人間にしてみればなんの不思議もありません。

 レポーターの説明では、結婚式の前に写真でこの人と決まりました、という通知がきて、初めての対面をする結婚式後もすぐには実際の夫婦にはならず、しばらくは離れて生活し、お互いのことを念じつつ夫婦の情を高める期間をもつのだということでした。二人の間に愛情が生まれる期間をおく、というこの方法は実に賢明なやり方だと思います。

 浩子さんが誰と連れ添うのかはわかりません。言葉の通じない外国人と一緒になる可能性も大きいということでした。浩子さんは日本でこれまで積み上げて来たすべてを捨てなくてはならないかもしれません。その覚悟もすっかりできている様子でした。彼女が記者会見の最後に言った言葉は印象的でしたー「まわりのみなさんがどんなふうに見ているかはよくわかっています。でもわかっていながら、おして貫きたいと思うほどこれは価値のあることなのです」。

 同じ信仰をもつ者として、浩子さんの言葉は拍手を送りたいほど美しいものでした。でもどうして浩子さんにとってはそれが「統一教会」だったのでしょうか。私は様々な宗教遍歴を経て、その果てにイスラームと出会いました。そして、そのときはやっと真理に出会ったという確かな手ごたえがありました。私にとって信仰は「イスラーム」でなくてはなりません。それ以外にはありえません。しかし、浩子さんは浩子さんで、統一教会に「真理」を見いだしたようです。一体これをどう考えたらいいのでしょうか。私の真理と浩子さんの真理とはどうして食い違うのでしょうか。もちろん彼女の信じる神も私の信じるアッラーも同一ではありましょうが。

 「信じる」とは「知る」ことです。魂がはっきりと神の存在に触れることです。「信仰」とは無信者が考えるように「単なる思い込み」ではないのです。だとしたら、どうして浩子さんは真理の外で「神に触れ」てしまったのでしょうか。(静岡ハウラ)



 すべての人間が認め信じうる真理を提出できるのは、おそらく預言者でしょう。しかし、預言者を実際に目の前にし信じない者も人間です。さまざまな人間がそれぞれの真理を見たとしてもしかたがない面があるとおもいますが、いかがでしょうか(東京K)



交換日記はいかが

 (抜粋)ムスリム新聞のアイディアは、実は私にも以前からありました。またムスリムの生の声をまとめたいという、気持ちもあります。というのは、マスコミの無責任な報道、部外者の偏見ある記事に、もう飽き飽きし、自分で何かをしたいと感じているところなのです。ハウラさんと一緒ならできそうな気がします。

 ムスリム新聞が具体化するまでの提案、というか、その準備として、交換日記はどうでしょうか。何人かのムスリマで、ノートを回して書いていくのです。例えば、手紙であれば一人のひとしか読まないのですが、交換日記なら何人もの人に読んでもらえるし、意見も話題も膨らむと思うのです。考えてみてください。(東京ヌリーン)

 

 賛成です。交換日記なんてとてもいいアイディアです。ぜひ近く、ビズニッラー、具体化したいと思いますので、関心のある方、参加されたい方はハウラまでご連絡を。ただし女性のみですので悪しからず。(静岡ハウラ)

 

 「手紙からの」コーナーへのお便りを待っています。

最近あったこと、感じたことなど、お気軽にお寄せください。

創刊号_やさしいタジュウィード

(一)

 「主と話をしたかったらクルアーンを読みなさい」預言者(サッラッラーフアライヒワサッラマ)はこう言っています。クルアーンアッラーの言葉です。クルアーンを手にするとき、私達は預言者(サッラッラーフアライヒワサッラマ)に啓示されたそのままの言葉を前にするのです。他の言語に移し変えたときクルアーンがその生気をまったくといっていいほど失ってしまうのもそのためです。クルアーンアラビア語で声をだして読まれるべきものなのです。アラビア語を母国語にしない私達にとってそれは容易なことではありません。しかし、預言者(サッラッラーフアライヒワサッラマ)は、「クルアーンの朗誦に熟達した者は、気高く敬けんな記録天使と会いまみえる。それに口ごもる者(注ーアラビア語を外国語とする者の意)は刻苦勉励することで、2倍の褒賞が得られる。」と言っています。ですから、根気よく頑張ろうではありませんか。クルアーンの読しょうには規則があります。それをこれから連載で学んで行きましょう。

 今回は事始めとして、クルアーンを読むことの大切さを語ったハディースをもういくつかご紹介することにします。

 「クルアーンを読みなさい。クルアーンは審判の日、その独唱に親しんでいたものの執り成しとなるでしょう。」

 「アッラーの書から一字を読む者には、その一字一字が善行一つと数えられる。ところで善行一つには10倍の報酬がある。アリフ・ラーム・ミームを一字というのではなく、アリフで一字、ラームで一字、ミームで一字である。」

 「クルアーンをあなたがたの声で美しく飾りなさい」

 

※なお、東京にお住まいの方で、個人、あるいはグループでタジュウィードのレッスンを受けたい方は、ムスリム協会にご相談ください。

創刊号_『40のハディース』学習ノート

『40のハディース』学習ノート

 7月2日、ヒジュラ暦で年が改まりました。1413年がスタートしたのです。ヒジュラ暦は、預言者ムハンマド(サッラーッラーフアライヒワサッラマ)がマッカ市民の迫害を逃れマディーナに移住した年を起点にしています。マディーナに移った預言者は同年、成文憲法を作成し、イスラーム政治をスタートさせます。最初のムスリム国家がここに誕生したのです。イスラーム文明の幕開けです。

 この記念すべきヒジュラ暦の一月、ムハッラムに私達が新聞を創刊できることはアッラーの祝福ではないでしょうか。日本でもムスリム人口は近年着実に増えていますが、共同体を形成するには、まだまだ数も足りず、地理的、時間的障害に阻まれ思うようになりません。しかし、数が少ないからこそ、一層団結が要求されもし、また堅い団結も可能なのではないでしょうか。本当の共同体の誕生を待ちつつ、精神的な共同体を、ビズニッラー、今から作っていこうではありませんか。

 連載でお送りする『「40のハディース」学習ノート』。第1回目の今回は第1のハディースですが、折よく、マーシャアッラーヒジュラ(聖遷)を扱ったハディースです。

 この第1のハディースは「意志」の大切さについて語ったハディースで、三大ハディースのうちの一つに数えられています。ちなみに、あとの二つはイマーム・アフマドによれば第5と第6のハディースです。

 「行為とは意志に基づくもので、人にはそれぞれ意図するものがある。したがって、アッラーとその御使のために聖遷をした者はアッラーとその御使のために聖遷をしたのであり、現世の利益や女との結婚のために聖遷に加わったものは、それらのために聖遷を行ったのである。」

 西暦622年、ムスリムに対する迫害が激化するマッカを逃れ、預言者(サッラーッラーフアライヒワサッラマ)はマディーナにヒジュラを行っていますが、彼に付き従った信者の中には純粋な信仰心からではなく現世的な目的から聖遷に加わった者もいました。求婚相手の女性から聖遷に参加したら結婚してもいいと言われ、その女性と結婚したさにヒジュラに加わった者もいました。その男は、以来、結婚相手の女性の名をとってムハージル・ウンム・カイスと呼ばれたそうです。

 聖遷を例えにしたこのハディースは、私達の行為にとっていかに「ニーヤ(意図)」が重要かを示すものです。ニーヤいかんによって同じ一つの行為は、報酬を受けるべきものにも、罰を受けるべきものにも、あるいはそのどちらでもないものにも変わりうるのです。

 自分が慣れ親しんだ土地、様々な所有物を捨て不信者の町から信者の町に移り住むことは、信仰のためとはいえ辛いことです。ですから預言者(サッラーッラーフアライヒワサッラマ)に従ってヒジュラを行ったものにはアッラーがその苦労を特別の報酬で報いてくれますが、現世利益のためにヒジュラを行った者は、当然それにあずかることはありません。結婚のために聖遷に加わった者は、結婚成就によって当の目的を果たしたのですから、それ以上のものをアッラーから期待するのは見当違いというものでしょう。

 ここでひとつ、私達の礼拝を例にとってみましょう。礼拝の始めに私達はニーヤを発しますが、これは一つにはこれから行う礼拝が何の礼拝かを明確にするためにあります。ズフルの礼拝もアスルの礼拝も同じ4ラカア、二つを区別するのはニーヤ以外にありません。礼拝におけるニーヤの意義はもちろんそれだけではありません。さらに需要なことは礼拝をアッラーのために行う、アッラーのためだけに行うということをはっきりと意志することです。これが、クルアーン第112省のタイトルにもなっている「イフラース(専心)」です。あるいは「ラーイラーハイッラッラー」の意味するところといってもいいでしょう。

 アッラーはなによりも「シルク(多神教)」を嫌いますが、それはアッラーのほかに神々を並びおく、ということだけを意味するものではありません。アッラーのためのみに行うべき行為にほかの動機を混ぜることもシルクとみなされます。人にいいところを見せたい、と思うそのわずかな虚栄心ですらシルクとなりうるのです。

 預言者(サッラーッラーフアライヒワサッラマ)があるとき言いました。「私があなた方にもっとも懸念するのは小さな多神教です。」「小さな多神教とは何ですか。」と人が尋ねると、預言者は答えて言いました。「見せびらかしのことです。復活の日、信者はおのれの行為に従って報酬を受けますが、その日アッラーは言われるでしょうー『前世に行いを見せびらかした人のところに行って彼らが報酬をくれるかどうかみるがよい』」

 さらに別のハディース預言者(サッラーッラーフアライヒワサッラマ)審判の日の裁きの様子をこう語っています。

 「審判の日、まず殉教した男が裁きの場に引き出されます。男が進み出るとアッラーは男に自分が懸けた祝福を喚起し、男はそれを認めます。そこでアッラーは尋ねますー『お前はそれで何をした』。男は答えて言いますー『あなたのために戦い、殉死しました』『お前は嘘をついた』とアッラーはこれに対して言います。『お前が戦ったのは人がお前を勇敢だというためだったではないか。なるほどお前はそう言われた。』こう言うとアッラーは命を下し、男は顎を引きずられて地獄に連れ込まれます。次に知識を自ら学び、また人にも教え、クルアーンをよく読んだ男が前に進みます。アッラーは男に自分が懸けた祝福を喚起し、男はそれを認めます。そこでアッラーは尋ねますー『お前はそれで何をした』。男は答えて言いますー『知識を学び、「それをひとに教えました。またクルアーンを読みました。あなたのためにです。』これに対してアッラーは言います『お前は嘘をついた。お前が知識を学んだのは、人から博識だと言われるためであり、クルアーンを読んだのは人からうまいクルアーン読みだと言われるためだったではないか。確かに人はそう言った。』こう言うとアッラーは命を下し、男は顎を引きずられて地獄に連れ込まれます。次にアッラーが富を授け、金銭を与えた男が前に出ます。アッラーは男に自分が懸けた祝福を喚起し、男はそれを認めます。そこでアッラーは尋ねますー『お前はそれで何をした』。男は答えて言いますー『あなたが金を使うようにと望まれる機会をひとつも逃さず、あなたのために費やしました』。これに対してアッラーは言いますー『お前は嘘をついた。お前がそれをしたのは、人から気前がいいといわれるためだったではないか。確かに人にそう言われた』。こう言うとアッラーは命を下し、男は顔を引きずられて地獄に連れ込まれます。」

 なんと厳しい話でしょうか。このハディースを聞いたムアウィアは身を二つ折にして泣いたそうです。やがて涙が乾くと言いましたー「アッラーは真実を語り、その使徒もしかり。至高なるアッラーは言われたー『現世とその飾りを望む者は、彼らの行為の見返りを現世のうちに十二分に受け、受け残しなどしない。彼らを来世で待つのは地獄の火のみだ』」。

 礼拝に話を戻しましょう。例えば、私が一人で部屋で礼拝をしていたとします。誰も見るものがいませんから、礼拝は純粋にアッラーに捧げられたものといえます。ところが、その最中に誰かが部屋に入ってきました。途端に私の心に、普段より長めのアーヤを読んで、いかにも熱心なポーズを取りたい気持ちが働きます。それが「リヤー(見せびらかし)」です。気持ちに不純なものが入り込んでしまっています。アッラーに専心する=イフラース、と言うは易いのですが、私たちの行為には様々な動機が複雑に絡まっているのが普通で、なかなかそれを純化するのは難しいことです。預言者ならばいざしらず、私たち凡人がそこまでの境地に達するのは並大抵の努力ではすまないでしょう。ただ、私たちが自分自身のいたらなさに落ち込み、思わず尻込みしそうになるときには次のハディースを思い出すことができます。「・・・もしもあなた方が罪を犯すことのない者であるならば、アッラーはあなた方を消滅させ、罪を犯すに違いない人々と取り替える。そして、彼らがアッラーに許しを求めるときには、彼らをお許しになる」

 私達の行為がその意図によって評価されるということは、逆の見方をすれば、たとえどんなに小さな行為でも動機さえ純粋ならアッラーの目には好ましいということです。

「たとえなつめの実半分でもサダカしなさい。それによって地獄の火を逃れるでしょう」あるいは「たとえ羊の足でもそれを隣人に与えることを下げすんではならない」と預言者(サッラッラーフアライヒワサッラマ)は言っています。第37のハディースにあるように、よいことをしたい、という気持ちが起これば、実際にそれが実行出来なくてもアッラーの手許にはプラス1と書かれ、ひとつの行為をすればニーヤ次第で10から700倍にも評価されるのです。

 また、ニーヤは私達の日常の行為を信仰行為に変えます。例えば、食べる、飲む、眠る、歩く、といった行為はそれだけでは何の意味ももちません。ところが、ニーヤをもってそれらの行為を行えば、それは立派に信仰行為となります。おなかがすいたから食べる。それではなんの意義もありませんが、食べ物の恵みをアッラーに感謝し、栄養を取ることによって体をアッラーのために役立てて行こうというニーヤをもって食べたのなら、信仰行為としての報酬があるでしょう。シャワーを浴びるのにしても、単に暑いから、単に汗をかいたからシャワーを浴びる場合と、グスルのニーヤをもって浴びる場合では同じシャワーでも意味が違って来ます。歩くにしても、礼拝のためにモスクに向かって歩くのなら、その歩みの一歩一歩が善行として加算され、また歩みそれ自身が礼拝にある、といわれています。

 私達の行為の意義を決定付けるのは意図だということを学んだわけですが、最後に、ニーヤに関連して信仰の3つの形についてお話ししましょう。ひとつは、天国でアッラーから褒美をいっぱいもらいたいための信仰で、これをイバーダ・アルティジャール(商人の信仰)といいます。ふたつめは、アッラーに背き地獄に落とされることが恐いための信仰、これをイバーダ・アルアビード(奴隷の信仰)といいます。3つ目は、イバーダ・アルイフサーン、心からの信仰です。この3つ目の信仰を理解するには預言者ムハンマド(サッラッラーフアライヒワサッラマ)を思い起こせば良いでしょう。彼は夜の礼拝に熱心なあまり愛sがはれるほどだった。とアーイシャ(ラディアッラーフアンハー)が伝えていますが、彼にはアッラーから天国での報酬はすでに十二分に約束されていましたから、報酬を望むために礼拝をあげる必要はありませんでした。また、これまでに犯した過ちもこれから犯す過ちもすっかりアッラーから許されていましたから、アッラーの罰を恐れることもありませんでした。それにも拘わらず、預言者(サッラッラーフアライヒワサッラマ)は他のどんな信者にも増して熱心に礼拝をあげました。この預言者の礼拝こそ、アッラーへの言い尽くせない感謝のためのイフサーンの信仰を表すものです。

 「40のハディース」の編者ナワウィーは、このイバーダ・アルイフサーンこそ最もすぐれた信仰の形と考えますが、アッラーを信頼し褒美を期待するイバーダ・アルティジャールと地獄を恐れアッラーに許しを乞うイバーダ・アルアビードも決して軽んじるべきではありません。むしろ私達の信仰心には両方がバランスよく備わっているべきです。例えて言うなら、それは鳥の両翼に似て、どちらか一方が欠けても空を飛ぶことはできません。そしてその両翼で飛んで行く先が信仰の完成ともいうべきイバーダ・アルイフサーンなのです。